ソヴィエト海軍の原子力潜水艦K-19の原子炉事故から60年・・・
- カテゴリ:ロシアの潜水艦

『ロシア通信社ノーボスチ』より
2021年7月4日2時30分配信
【ソヴィエト潜水艦K-19の1961年7月4日の事故】
1961年7月4日、北大西洋のソヴィエトの弾道ミサイル搭載原子力潜水艦K-19で核動力装置の事故が発生した。

K-19は最初のプロジェクト658潜水艦であり、第18中央設計局(現『海洋工学中央設計局ルビーン』)により開発された。
それは1958年にセヴェロドヴィンスク(アルハンゲリスク州)の第402工場(現『生産合同・北方機械製造事業』)で起工され、1959年に進水し、1960年11月12日に就役した。

1961年6月、原子力潜水艦は北方艦隊へ加入した。
K-19が有する主動力装置には2基の水冷原子炉が含まれ、艦の船体中部へ全く平面に互いに連続して配置されていた。
これは最初のソヴィエトのロケット原子力潜水艦であった。
その兵装は、魚雷と3基の水上発射大陸間弾道ミサイルで構成されていた。
この原子力艦は記録的な速さで建造され、ソヴィエト連邦は、既に原子力ロケット潜水艦「ジョージ・ワシントン」を軍備として保有していたアメリカ合衆国の挑戦に答えた。
1961年夏、K-19は大規模な艦隊演習『北極の輪』へ参加した。
大西洋からノルウェー海を通過して北氷洋へ入り、仮想敵の行動を模し、ソヴィエト社会主義共和国連邦の沿岸へ接近し、その後、氷の下の「ソヴィエトの軍事空間」から直接に「ミサイル攻撃」を実施する必要が有った。
目的は、対潜防衛の有効性とアメリカの原子力潜水艦との戦闘能力の点検に在った。
演習中、探知を回避する為、K-19は流氷の下へ入った。
そのコースは、氷に覆われたデンマーク海峡を通ってグリーンランドとアイスランドの間を走破した。

航海16日目の1961年7月4日、ノルウェーのヤン・メイエン島に位置するアメリカ海軍基地から100マイル離れた北大西洋上の深度100メートルに居た潜水艦で、原子炉区画の警報が作動した。
後に解明されたように、熱せられた蒸気が圧力変換器のチューブの1つを突き破った。
水位が下がった結果、冷却水循環を保障する双方のポンプが詰まり、原子炉の活動ゾーンの急速な加熱が始まり、不可避の爆発の恐れが出てきた。
激化する大惨事の中で、如何なる標準の措置も講じる事は不可能であった。
K-19艦長は、原子炉から放射線が漏れているという報告を受け、原子炉は制御システムに応答しなかった。
原子炉の事故は、潜水艦を爆発させ、その後に地球環境災害~世界の大洋の海水の放射性中毒を引き起こすかもしれなかった。
潜水艦長は浮上を指示し、手元の材料で冷却システムの損傷部分のパイプラインを複製し、取り付ける決定を下した。
この2時間で、放射線被曝ゾーンに居た防護服の無い潜水艦乗員(この時、それは無かった)は、素手で、放射線からの防護の無い軍用ガスマスクで冷却システムを取り付け、潜水艦を救った。
将来的には、このような複製された回路が全ての原子力潜水艦に登場した。
事故処理中、人員は再三に渡り放射線被曝ゾーンへ長時間滞在し、42名の乗組員が大量の放射線を受け、活動性ガスとエアゾールが拡散された結果、潜水艦の有人区画の放射線環境は複雑化した。
事故発生から4時間半が経過し、放射線照射を受けた船員には、放射線病の兆候が表れ始めた~15名が重度、11名が中度、16名が軽度。
長距離送信機のアンテナが損傷を受け、潜水艦長が事故を艦隊司令部へ伝える事が出来なかったが故、状況は複雑化した。
このような事になった為、艦長ニコライ・ザテエフは、そこへ行くには3日以上が必要であるが、基地へ戻る決定を下した。

暫くして、非常用送信機の助力により、演習へ参加し、救助に来た2隻の中型ディーゼル潜水艦との通信に成功した。
潜水艦の1隻は艦隊本部との通信に成功し、原子力潜水艦の事故を伝えた。
7月4日夕方までに、K-19から2隻の潜水艦へ65名の船員が避難し、更に1日経った後には全ての乗組員がそこから去った。
これより前、原子力ロケット艦のメカニズムは非稼働状態となった。
数日後、艦隊本部から派遣された医療グループの乗る水上艦が事故現場へ送り込まれ、K-19は曳航されて基地へ移送された。
この時、原子力潜水艦の乗組員が避難した2隻のディーゼル潜水艦は、魚雷発射管の射線上にK-19を保持した~もしも外国軍がそこへの侵入を試みた場合、それは撃沈されただろう。
事故から87時間後、K-19乗組員全員が入院した。
最大限の放射線量を受けた8名は、1週間以内に死亡した。
2人はレニングラード(現サンクトペテルブルク)に埋葬され、6名はモスクワのクジミン墓地へ埋葬された。
残りは、長期間にわたる治療を受けた。
事故へ対処した乗組員の行動は、政府委員会により正当と認められ、大勢(死後を含む)が勲章とメダルを受けた。
原子力潜水艦K-19は修理へ送られた。
K-19は、完全に除染され、再建された後、1965年に再就役した。
それは、水中からミサイルを発射する為に改造された。
同艦は、ソヴィエト社会主義共和国連邦の戦略潜水艦部隊の一部であり続けた。
しかし、1961年の事故の後、K-19は船員から「ヒロシマ」という綽名と「不幸な」艦の評判を得た。
それは事故、火災を起こし、水上や水中での衝突を免れなかった。
1969年11月15日、K-19はバレンツ海のテリベルスキー岬の横断中、ソヴィエト原子力艦の秘密裏の追跡を行なう事を試みたアメリカの原子力潜水艦「ガトー」と衝突した。

双方の艦が損傷を受けた。


1972年2月24日、ニューファンドランド北東のK-19で火災が発生し、28名が死亡した。
1972年の緊急事態の後、潜水艦はセヴェロドヴィンスク市の艦船修理工場『ズヴェズドーチカ』へ送られ、そこで更新され、近代化された。

修理後にK-19は、更に何度かの戦闘勤務へ出た。
1979年、原子力潜水艦はロケット巡洋艦としての重要性を失い、通信潜水艦へ改造された。
1990年、ソヴィエト社会主義共和国連邦海軍から除籍された。
2003年、それは解体の為、艦船修理工場『ネルパ』(スネシュノゴルスク)へ送り届けられた。



司令塔のみが保管された。
2018年7月、K-19の司令塔は、モスクワ郊外のピャロフスキー貯水池の沿岸へ設置された。
それは、2013年からロシアに居住しているリトアニアの実業家ウラジーミル・ロマノフ(1960年代末にK-19でコックとして勤務した)が工場から購入した。

長い間、1961年のK-19の事故は秘密とされていた。
K-19の悲劇は1990年代に知られるようになった。
新聞の出版物や書籍が出された。

2002年、ハリソン・フォードとリーアム・ニーソン主演のアメリカの映画『K-19.残された未亡人』(K-19:The Widowmaker)が一般公開された。
2006年、元ソヴィエト社会主義共和国連邦大統領ミハイル・ゴルバチョフは、ノーベル賞委員会へソヴィエト原子力潜水艦K-19乗組員の平和賞へのノミネートを提案した。
1998年、電力会社『モスエネルゴ』の資金により、モスクワのクジミン墓地へ埋葬されたK-19乗組員の偉業を記念した記念碑が建てられた。

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